高野悦子・著。新潮文庫。
この本の存在は「神戸在住」という漫画で知り、二十歳でいるうちに読んどきたいなーと思っていたら友達んちの本棚にあるのを発見して、借りてきた。 読むと鬱になるよ、と言われていたけど、ホントだった。予想はしてたけどホントだった。 アタシは特に、すぐ同調しちゃう質だからね・・・。 高野悦子は立命館大学に通う女学生だった。 勉強もできて運動もできて容姿も優れてて、家族仲もいいしその家が貧乏という訳でもなし(むしろ裕福な方だったのでは)、ハタから見れば恵まれたお嬢さんだ。 でも、そんな彼女が選んだのは鉄道自殺という末路。線路に侵入し貨物列車に撥ねられて即死した。 「二十歳の原点」は、彼女が書き綴った、日記やメモや詩が記されたノートを書籍化したものである。 この本に興味を覚えたのは、彼女が学園紛争に身を投じていた、という情報による。 漠然とだけどそのあたりのことに関心があるので、読めば何か分かるかしらと思ったのだ。 あんまり分かったことはない。日記というものの性質上、独りよがりというか、「事情が分かっている」ことを前提に書くため、例えば出来事の概要が書かれていても細かい背景は自明のものとされている、という風な事態になってしまうからだ。まぁ、仕方ないことと言えばそうだ。 学園紛争をしていた時代の若者は随分 元気だったのだなぁ、という印象は常々あるが、今回も例に漏れず、彼女の目を通して描かれる闘争に、改めてそう思った。 今の大学生、つまり私に、私達に、彼らと同じ行動をすることはおそらく不可能だ。 多くの人間にとって、それは「格好悪いこと」で「無意味なこと」なのだと思う。 大学に対してアレコレ言っている暇があれば、外でもっと面白いモノを見つけてくるさ。 権力に反抗したところで何も変わりはしない、変える必要もないのさ。 そういう風に思っている・・・の、かな? 自分は当事者である筈なのによく分からない。時代は違えど、同じ年齢で同じ立場にある者なのに、どうして同じ気持ちが湧いてこないんだろう。それって不思議なことじゃないのか? 当時の大学生がどういう不満でもって当局と戦ったのか、戦ったのは果たしてマジョリティーだったのかマイノリティーだったのか、そういう基本事項から学ばないと・・・まだまだ分からない世界です69年。遠いよねぇ。36年前ですよ。オトンもオカンも高校生だよ。覚えてんのかな当時のこと。彼らの目には、どういう風にうつってたのかな。 鬱になったのは、彼女の死に対する記述とか虚無的な独白とか、そういうものにやられたからです。 最初のうちは、死は敗北だ、自殺は弱い人間のすることだ、と否定することが多いが、それでもだんだんとジレンマに陥っていく。 死にたい、けど、死ねない、死にたくない。 結局 彼女は自死を選んだ。睡眠薬を飲んだ末の行動だから、もしかしたら頭が朦朧としていたのかもしれない。 だとしたら、自分が死にに行く自覚をせずに死ねた訳で、それって結構 幸せなことなんじゃないかなーと、私は思ってしまうのです。 だって、死は甘美だもの。全てが終わらせられる、最後の逃走手段。 死にたいけど死ねないのは、怖いからだ。痛いのが嫌、苦しいのが嫌、辛い思いはしたくない。 それに理性も働くし。死んじゃったら全部おしまい、ホントに終わりにしちゃっていいのか? て。 その点、ぶっとんじゃってれば そういうもの無くして死にに行けるんじゃないのと思うのだけど。 死にはしない、と言ってた悦子さんが結局 自殺を選んだように、何だかんだ言って死ねない自分を自覚してる私も、ある日ひょいって死んじゃったりするのかな。衝動で、死んじゃったりするのかな。
by ling-mu.m
| 2005-04-09 01:26
| 活字/漫画
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