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ゲージツの秋なので
という訳でもないですが、時間があったので東京国立近代美術館に行って来ました。
現在は企画展で、「草間彌生展 永遠の現在」がやっております。

草間彌生をきちんと意識したのは今年の夏のことです。
それまでは、作品とか名前とか素性とか、断片的に聞きかじったことがあるぐらいで。
折角 企画展やることだし、学校から近いし、ってことで行って来ました。

入ってすぐ、黄色地に黒のドットでペイントされたカボチャが整然と棚に並んでいる作品と出会うのですが、そこで私は、自分が大量の水玉が嫌いだった、ということに気づきました。
イクラや数の子に代表される、粒々が駄目なのです。
しかし、水玉は草間作品では欠かせないモチーフでして。
しまったー、と思い、それでも何とか見れないものかね、と無理矢理の平常心で作品と向き合ってました。
ら、意外にそこまで気持ち悪くもならず、しばらくしたら平気になりました。免疫でもできたのか。

でも、水玉より気持ち悪いものと対面してしまいました。
いわゆる“ソフト・スカルプチュア”と呼ばれる作品群。
写真でしか見たことがなかったものの実物を突きつけられた衝撃は、正直 吐き気すらもよおさせるものでした。
布製の突起物(男根を象徴)で覆われている・・・というか、それで成っているというか。
写真で見たのは「死の海を行く」という作品だったんですが、それも展示されていて、想像以上の大きさに驚かされたし。
作品量の多さで、そちらもやがて慣れていきましたが。
にしても、何がここまで彼女を執着させるんだろう。
暗示しているものは何か、それはマイナスのイメージなのか否か、決してリアルなそれではなくまるで玩具のようなつくりにしているのは何故か、色々と考え込みました。
理解に苦しむな。

好きだと思った作品が二つ。
鏡張りの個室に色とりどりの電飾を天井からつるし、鑑賞者を真ん中に立たせる「水上の蛍」と、巨大なミラー・ボールが回り続ける「宇宙の心」。
どちらも電気を使ってまして、その辺が自分の好みにビビッときたのだろうなと思います。
電気、好きですから。電飾、大好きですから。
でも、鏡を使っているところがいただけない。特に前者。
鏡で終わりのない空間を作り出してくれる、その幻想性は何とも言えないのですが、如何せん使われているのが鏡なために、自分も映りこんでしまう。「鑑賞する自分」をも、作品の中に認めなければならない。
それが、この上なく辛いのです。
完璧に作品に浸かることを許してくれないから。自分という存在が消せないのです。常に目の前にあるために。
この、自己を目の当たりにする作業さえなければ、これほど素敵な世界はないのに、と思えてなりませんでした。
テーマは“自己消滅”なのに、そこに自分がいることを敢えて確認させる。
伝えられるメッセージは、自己を消せ、ではなく、消えゆく自己を守れ、なのでしょうか?
だとすれば、これほど厳しい作品はかつて出会ったことがないよ。

後者は、角度によっては自分が映らなくて済むから、随分と長い時間 座って見惚れていた気がします。
小さな鏡で大きなボールを作っているから、隙間から電気の光と中の機械が見えて、それが何とも絶妙に幻想的なのに現実的でした。
決して暖かな、柔らかい、幸せな光ではなかったけど、今回は意外にも、それが心地良かったのです。


全体を総じて思ったのは、この人には時代がないのか? ということ。
すーごく昔に作った作品とつい最近の作品が、まるで同時代に作られたように、隣同士で並べられていて、そこに違和感というものがないのです。
勿論、ある程度の流れはあるようです。今はコラージュ作品は作っていない、とか、そういうの。
でも、たとえば「カボチャ」に代表されるように、まるで変化も進化もしていないように思わせる作品も確かにある。
十年、二十年の時が流れているのにこの「変わらなさ」は何なんだ? という疑問が、始終頭にありました。

時間ができたら、ちょっと調べてみようかな。
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by ling-mu.m | 2004-11-02 17:34 | アート的な
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