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アイノシルシ
バイト後、他学部の講義要綱を見に学校へ寄った後、王子小劇場にて観劇。
ダムダム弾団第5回公演「アイノシルシ」。
王子小劇場に行くのは2回目だし地下鉄出口からすぐだし、とタカをくくって地図を持って行かなんだら見事に通り過ぎててめっさ歩いた。看板ちっちゃすぎやねんて!

原因不明の大地震により壊滅状態になった街が舞台。セットはなかなか大掛かり。
記憶障害になり、過去の感情を覚えていられなくなった少女・えそらは、そんな街で生き続けていた。彼女は覚えられない代わりに携帯で写真を撮る。風景や人間、彼女が見たもの全て。
みなしごのえそらを面倒見るもぐりの女医、オタクな彼氏、ビッグになるためなら手段を問わない友人、に加え、街の復興支援でいっきに選挙票集めをしたい政治家と彼を取り囲む人々、新興宗教団体の元教祖と残党、穴から出てきた自称・神様・・・総勢16名での舞台。
小劇場公演の中ではかなり大所帯なのではなかろうか。

ものっすごく、長かった。上演時間、2時間20分。上演前に長いですよーと告知されたのは果たして吉と出たのか凶と出たのか、最後の方は尻の痛さで全ての間という間がうっとうしくなっててしまった。
無駄が多すぎるのでは。率直な感想。削れるところは多々ある筈だ。短くすればいいというものではないし、これは実験的な脚本だったのかもしれない。それにしたって、ぎゅっと詰まった物語ではない。様々な人間にスポットを当て過ぎなのだ。どのキャラにもメインエピソードがあるような。それでいて、それ程 大事なことなんか誰一人として言っちゃいない。
物語のがっしりした話なのだから、主人公に話を集約すべきだ。

しかし、そんな不満も尻の痛さも飛んでいくようなラストシーンには驚かされた。
つまりはこれが言いたかったのか、と、一瞬で明瞭になった気持ち良さ。
ラスト前に登場人物がどんどん死んでいって、しまいには全員死んじゃって、えそらと自称神の謎な男女だけが生きていて、そりゃ あんまりだーとゲンナリしていたのだけど、それは結局、最後のえそらの台詞に持っていくために必要な伏線だったんだ。

「死んじゃえばみんな同じなんて、そんな訳あるか。
 親が死んだらわーってなる、彼氏が死んだらもっとわーってなる、それが当然だ」

的な。正しくは記憶できてない、でも、そんな当たり前で単純なメッセージがちゃんと受け止められる、そういう芝居だった。
物事はシンプルであるべきだ。物事に向かう人の気持ちも、シンプルであるべきだ。
そういう話なんだと思った。

千秋楽、ということで、テンション上がりすぎなのか疲れが出ていたのか練習不足か、どの人もかーなりかんでてそれが気になった。カツゼツ悪い人はいなくて、安心しては見れたけど。
カツゼツ悪い役者とかむアナウンサーが嫌いです。
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by ling-mu.m | 2005-03-23 00:58 | 芝居/舞台
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